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2011年4月の16件の記事

2011/04/30

震災復興キックオフデー

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昨日は、村井知事が宣言した「震災復興キックオフデー」。ユアスタではベガルタがレッズと、Kスタでは楽天がオリックスと、それぞれ待ちに待ったホーム開幕を迎えました。

この日、新幹線が東京-青森間、仙台市営地下鉄も富沢-泉中央間が全区間で復旧しました。

月曜日には、新幹線の福島-仙台間が復旧しており、丁度出先で高架橋の上を日の光を浴び輝きながら走り抜けるシルバーの車両を目にし、何だか感動してしまいました。また、既に一部復旧(今月13日)していた仙台空港から飛び立つ旅客機も目にし、またまた感動。

スタジアムも、地下鉄も、新幹線も、空港も、あれだけ甚大な被害を受けながら、ちゃんと復旧できた。その陰には、言うまでもなく、たくさんの人の血の滲むような努力があったに違いありません。

震災後、国内でインターネットに投稿された心温まるつぶやきや、海外から寄せられた応援メッセージをまとめたサイト「prayforjapan」に次のような一節がありました。

停電すると、それを直す人がいて、断水すると、それを直す人がいて、原発で事故が起きると、それを直しに行く人がいる。勝手に復旧してるわけじゃない。俺らが室内でマダカナーとか言っている間クソ寒い中死ぬ気で頑張ってくれてる人がいる。(prayforjapanより引用

自分は、そんな人たちに支えられて生きているんだ。人間の力って、凄いなー。そう思います。

昨日も、たくさんの人たちの努力によって、ベガルタ、楽天ともに、無事、ホーム開幕を迎える事ができました。

なかでもベガルタは、地元で練習ができなかった間、宿舎と練習場を提供してくれたレッズとの一戦と言う事で、少々複雑ながらも、感慨深い思いで試合を見守らせていただきました。

余震の不安もあるであろう中、いつものユアスタでは考えられない程たくさんのレッズサポーターが駆け付けてくれました。本当に感謝です。

結果は、ベガルタが1-0、楽天が3-1と、ダブルでホーム開幕勝利!

試合後、ベガルタをスタジアム観戦した友人からメールが届きました。津波に襲われながら、九死に一生を得た友人です。短いメールでしたが、無事にこの日を迎えられた事の喜びが、ひしひしと伝わってくるメールでした。

或はまだまだ復旧、復興どころじゃないという状況の方も多いとは思いますが、元気を出せるところから頑張って、前へ進む原動力となっていければと。ベガルタ、楽天にも、その先陣を切って、これからも勇気を、元気を与え続けて欲しいと願っています。

***今日より明日が、より良い日でありますよう!***

2010年4月21日 仙台市営地下鉄富沢駅西にて撮影
PENTAX K20D/PENTAX FA77mm Limited F1.8

2011/04/25

障害者のための災害支援活動 2

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4月6日のエントリ「障害者のための災害支援活動」でご紹介した、JDF東日本(東北関東)大震災被災障害者総合支援本部 みやぎ支援センター」に、縁あってお手伝い(不定期ですが)に伺っています。

北は北海道、南は沖縄まで、全国各地から沢山の支援員の方々が、ここ宮城に駆け付けてくれています。本当にありがたいことです。

お知り合いで障害をお持ちの方が、今回の震災に関連して、何かお困りでしたら、同センターをご紹介いただければと思います。

下に、チラシをPDFにしてアップしましたのでご活用ください。なお、5/1よりセンター事務局が移転するそうです。移転後の連絡先がわかり次第、改めてご報告いたしますので、よろしくお願いいたします。

“JDF・みやぎ支援センターチラシ(PDF 207KB)”

2011年4月21日撮影 自宅周辺にて
PENTAX K-7 LS/TAMRON AF 28-300mmF3.5-6.3 XR Di LD

***今日より明日が、より良い日でありますよう!***

2011/04/24

魂のゴール

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東北楽天ゴールデンイーグルスは、4月12日の開幕戦を勝利し、昨日もルイーズ選手のサヨナラホームランで劇的な勝利。現在、6勝5敗で3位につけ、順調なスタートを切りました。

それに続けと、ベガルタ仙台は、昨日、7週間ぶりのJリーグ再開初戦に臨みました。

震災発生直後、避難所や車の中での避難生活も経験した選手たち。2週間の活動中止。活動再開後も避難所等でボランティアをしながらの練習。「自分達は、今、サッカーをしていていいのか?」という心の葛藤もあったそうです。

更に、今季、攻撃の中心的役割を期待されて加入した、マルキーニョス選手の退団。それによるチームプランの練り直し。

そして、被災地のチームとしての周りからの注目、期待。様々な重圧の中、まさに試練の再出発だったと思います。

そうした良くないコンディションの中、正直、勇気と元気を与えてくれる気持ちのこもったプレーをしてさえくれれば、勝利は二の次だと思っていました。

でも、選手たちは、前半に先制を許しながらも、最後まで諦めず、見事、1-2の逆転勝利と言う、最高の結果を出してくれました。

太田選手の同点ゴール、鎌田選手の逆転ゴールとも、ベガルタに関わる全ての人の気持ちが乗り移ったようなゴールでした。感動しました。

4月12日(震災翌日)のホーム開幕戦を楽しみにしながら亡くなられた、ベガルタサポーターの方も多くいらっしゃると伺いました。その方達の思いも載せた、まさに魂のゴールだったように思えてなりません。

この試合、きっと、一生忘れられない一戦となる事でしょう。

ところで、この日を迎えるにあったって、多くのクラブや他チームサポーターの方達の温かいご支援があったとも伺いました。

昨日も、主催クラブである川崎フロンターレのチーム、サポーターの皆さんから、多くのご支援とご配慮をいただいたそうです。

試合開始前には、川崎サポーターがベガルタの象徴的応援歌“twisted”を歌い始めるという光景も。

“川崎Fサポが応援フラッグ!仙台サポも「うれしい」”(スポニチ)
“【川崎フロンターレ】【ベガルタ仙台】2011年4月23日 エール交換”(YouTube動画)
“【川崎フロンターレ】2011年4月23日 煽りV”(YouTube動画)

本当に、感謝、感謝です。

きっとこの先も、ベガルタ仙台にとって、厳しい状況は変わりなく続くことでしょう。負けが込む時があるかもしれません。

でも、昨日のように、何があっても最後まで諦めない気持ちで戦い、勇気と元気と希望を与え続けてほしいと思います。


追伸。プライベートでも、被災地へのボランティアを続ける関口選手のスパイクに縫われた言葉です。
 “一人じゃない 信じよう 希望の光を!”(左足)
 “共に歩み 未来に向かって”(右足)


2011年4月21日 団地周辺にて撮影
PENTAX K-7 LS/TAMRON AF 28-300mmF3.5-6.3 XR Di LD

***今日より明日が、より良い日でありますよう!***

2011/04/17

感謝

毎週土曜に放送されているTBCラジオ“それいけミミゾー”で、全国各地の学校から届けられたメッセージが紹介されています。

東北放送では特別に窓口を設けていませんが、被災地の放送局を探して送っていただいているようだとのことです。手紙に合わせて、中には合唱や合奏を録音したCDも。

今週は、東京の修徳高校の生徒さんによるメッセージと合唱「故郷」。そして、広島の幟町中学校の生徒さんによるメッセージと合唱でFUNKY MONKEY BABYSの「あとひとつ」。

心に響きました。涙が出ました。本当にありがとうございます。

石川太郎アナも、幟町中学校生徒さんからメッセージ、涙で声を詰まらせていました。先週、神戸の小学生の皆さんからいただいたお便りの時もそうでした。

今回の震災では、全国各地、様々の立場の皆さんから、様々な応援や励ましを、とても沢山いただいています。

津波にあった友人を、塩釜の病院から仙台の病院に運んでいただいたのは、(確か)山梨の救急隊員の方々でした。私の住む団地のガス復旧にあたっていただいたのは、大阪ガス関係の皆さんでした。

街中で、これほど多くの他県ナンバーを見たことがあったでしょうか。

それから、全世界へも支援の輪が広がっています。

本当ありがとうございます。

そして、この想像を絶する災害と闘い続けていらっしゃる自衛隊、警察、消防、ボランティアの皆さん。

本当に感謝、感謝です。

この人と人との強い結びつき、絆がある限り、本当に“明けない夜はない!”、明るい明日がやってくる、そう確信します。

***今日より明日が、より良い日でありますよう!***

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撮影日不明 仙台市泉区 泉ヶ岳スキー場付近より
PENTAX Z-1/使用レンズ不明

2011/04/15

桜よ、ありがとう。

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昨日、ニュースを見ていたら、津波による壊滅的被害を受けた南三陸町に嬉しいニュースが。

 “がれきに希望の桜 宮城・南三陸”河北新報

津波になぎ倒されながらも花を咲かせた桜。目頭が熱くなりました。

きっと、町の方々にも勇気を与えてくれるのではないでしょうか。

桜よ、ありがとう。

PS.今日、所用で出かけた太白区長町付近は、満開までもう少し。我が家周辺ではまだ咲いていませんでしたが、大分つぼみも膨らんで、あと少しの辛抱のようです。

***今日より明日が、より良い日でありますよう!***

2010年4月21日 太白区富沢にて撮影
PENTAX K20D/PENTAX FA77mm Limited F1.8


2011/04/13

開花宣言

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昨日、仙台管区気象台からソメイヨシノの開花が発表されました。

今朝のTBCテレビ「ウォッチン!みやぎ」。佐々木淳吾アナが、「昨日は気温が低かったにもかかわらず、丁度、平均開花日に開花しました。大変な事が起きても、季節は歩みを止めることはない。そんなメッセージをもらったようで、今年の桜の開花には、なんか特別な思いを感じます。」というような趣旨のお話をされていました。

これから先、気温が高めで推移するようで、昨年と違い、仙台以南ではあっという間に満開を迎えそうだとの事。こういう時期ではありますが、出来れば桜の花を探しにどこかへ出かけられたらと思います。

余談ですが、以前、東松島市のある避難所での一コマが、ラジオで紹介されていました。

その避難所では、自衛隊の皆さんが炊き出しを行ってくれています。その食材は、浜松の自衛隊から届けられているとのこと。その荷物の中に、桜の花が添えられていたそうです。その花を配給場所に飾ったところ、被災された方々が、とても癒されていたとのお話でした。

被災された方々が、故郷に咲く花を心から楽しめる日が、一日でも早くやってきますように。


話は飛びますが、昨日開幕したプロ野球。楽天は、ロッテに6-4で勝利し、こちらも開花宣言。私達に大いに勇気を与えてくれました。避難所では、パブリックビューイングが開催されたとか。観戦された皆さんの喜ぶ顔が目に浮かびます。

監督、選手はじめチームスタッフは、千葉へ向かう直前に被災地を訪れ、その惨状を目前にし、背負うものはとても大きかったと思います。色々なプレッシャーも感じていたことでしょう。本当に意味のある開幕勝利でした。

現在リーグ戦中断中のベガルタも、やはり選手スタッフがボランティアで救援物資を持って、各避難所を回りました。関口選手は、プライベートでも避難所を回って、子供たちを励ましていました。

クラブハウスが半壊したり、攻撃の核と期待していたマルキーニョスが、地震、原発事故の影響で退団してしまったり、大変な困難に直面しています。しかし、選手たちもきっと期するものがあると思います。一致団結して、23日から再開するリーグ戦で、楽天に続き開花宣言してくれることを期待したいです。

バスケットの89ersは、残念ながら今季途中の活動停止、解散となってしまいましたが、是非、来年は復活してほしいです。

宮城のスポーツも、まさかの困難に直面。しかし、各アスリートたちも、この状況を乗り越えることで、きっと一回りも二回りも大きくなって行くことでしょう。勝敗もですが、どんな事があっても諦めないプレーによって、感動を、復興への追い風を起こしてほしいと思います。

***今日より明日が、より良い日でありますよう!***

2010年4月21日撮影
PENTAX K20D/PENTAX FA77mm Limited F1.8

2011/04/12

今朝、6時半頃にふと外を見ると、横殴りの雪、目を疑いました。時間の経過とともに晴れ間が広がってきましたが、西風がとても強く、気温もあまりあがらなかったようです。

先程、また福島浜通りで6弱の余震。本震の規模が尋常じゃないので、余震の規模、発生頻度も多いとは聞いていても、やはり気味が悪いです。

昨日の余震でも、また亡くなられた方がいらっしゃいました。

1か月たった今現在でも、本震の際に亡くなられた方の数がいまだに増え続けています。発生時には想像もつかなかったほど大変多くの方々が、尊い命を失うというとても悲しい状況です。

中には、最後まで南三陸町役場のスピーカーで非難を呼びかけ続けた若い女性職員、仙台市若林区荒浜の交差点上で通りかかる車を誘導し続けた警察官、夜勤明けの時間なのに仙台空港へ避難者の誘導に向かった警察官、町の広報車で非難を呼びかけ続けた亘理町職員などなど。多くの人の命を救いながら犠牲になった方々が、たくさんいらっしゃると聞きました。

私の身内には、亡くなった者はおりません。しかし、知人や知人の身内の方には、亡くなられた方、そして未だ連絡が取れていない方が何人かおります。

身内や近い方の不幸に遭遇した時以外、これほど「死」について深く考えさせられたことはありませんでした。いったい何故にこれほど多くの方が、突然、亡くならなければならなかったのか。

これから被災地が、いや、日本が再生していく上で、犠牲になられた方々の存在を決して忘れてはいけないと思います。

人間がより良い生活していく上で、経済の力も勿論大事です。それでも、原発問題も含め、経済性や効率性優先ではなく、どうか“生命尊厳”を第一に考える世の中となって行ってほしいと思います。

***今日より明日が、より良い日でありますよう!***

2011/04/11

1か月

東日本大震災の発生から丸1か月が過ぎました。

これまでも書いてきましたが、我が家周辺では電気、ガス、水道等ライフラインは復旧、ガソリン等燃料関係も並ばずに購入できるようになりました。

食料他、生活物資も、贅沢を言わなければ、入手しやすくなってきました。

しかし、ガスがまだであるとか、7日の大きな余震で再びライフラインが駄目になってしまったという近隣地域もあります。

更に、被害が大きかった地域では、いまだ大変な避難生活を送っていらっしゃる方が大勢いらっしゃいます。その避難所によっても、食料、物資の調達状況に大きな差があるとも聞いています。

厳しいところは、トイレ環境等の衛生面で健康を保つのが非常に大変な状況(インフルエンザ、ノロウイルス等感染症の多発)にある場所も多いそうです。

復旧、復興に向けて、メンタル面を含め、地域によって、人によって非常にギャップがあるというのが現状であると思います。

重ねて、今日も福島でM7.0、最大震度6弱の余震がありました。こちらでも、5弱の強い揺れを感じました。
緊急地震速報は、何度聞いても慣れません。心臓が止まりそうになります。

その後も頻繁に揺れています。つい今し方も揺れました。気味が悪いです。

福島第一原発の事故も予断を許しません。

本当に心休まる日は、いつ訪れるのか。

繰り返しになりますが、東日本大震災の発生から丸1か月が過ぎました。が、1か月も過ぎたのに・・・という感じです。

今日より明日が、少しでもより良い日でありますように。

2011/04/10

ラジオの力

先週初めよりテレビ・ラジオも徐々にレギュラー番組に戻りつつありますが、今回の震災では、改めてラジオの有難さを再認識しました。

先日書いたエントリ「不安」でも触れましたが、震災直後から情報源はラジオでした。テレビが設置されている床頭台が地震で壊れてしまい、結局、退院するまでテレビは見られなかったこともありますが。

不安な日々の中でも、特に聞きなれた東北放送アナウンサーの皆さん声は、心の支えともなりました。
地震発生時から、おそらく全てのアナウンサーが、二人ペアーになり短時間で交代しながら、24時間体制で放送を続けてくれました。

・・・が、その東北放送も、震災二日目から中継所が震災にあったことと、非常用電源の燃料切れで、出力低下のため受信できなくなりました。確か、4~5日後だと記憶していますが、受信できた時は、本当に嬉しかったです。

丁度、震災2週間目、まさに地震発生時刻を迎えようとする時、佐藤修アナが、津波で母を喪った石巻市渡波に住む女の子が、小学校の卒業式を迎えた新聞記事を取り上げた時の事です。記事を紹介し終わって、佐藤アナが女の子にエールの言葉を送ろうとした時、絶句し、その後は涙で言葉になりませんでした。(私は、既に途中から涙が止まりませんでした)

あるいは、アナウンサーとしてはNGなのかもしれません。でも、そんな佐藤アナが、ますます好きになりました。

ラジオは、人間の声の力と言うか、そう、スピーカーの向こうから人間の暖かさがダイレクトに伝わってくるような気がします。

やはり、メディアでは、一番身近に感じるラジオが大好きです。

2011/04/08

4週間

東日本大震災発生から4週が過ぎようとしていた昨晩、最大震度6強の地震がありました。

震源は宮城県牡鹿半島沖40キロ、深さ40キロ、マグニチュード7.4。

3月11日は揺れ幅がかなり大きく、グラグラと言う感じでしたが、昨晩はガクガクガクと振れ幅がかなり短く感じました。

丁度眠りについて間もなく、闇の中での強い揺れと何かが落ちる音。とても恐怖でした。

不幸中の幸い、警報が発せられたものの、大きな津波の被害はなかったようです。

余震なのか、想定されていた宮城沖地震なのかは、現段階では判明していなとのこと。いずれにしろ、マグニチュード9.0の巨大地震後、8.0クラスの大きな余震が発生する可能性もまだ残されているとか。

ライフラインも、電気、水道など、広い範囲でまた止まってしまいました。昼夜に亘り作業に当たられてきた方々の努力、劣悪な状況の中にある被災地の方々苦悩を思うと、胸を締め付けられます。

スーパー、ガソリンスタンド等では、また行列ができ始めているようです。

自然とはなんて惨いものなのでしょうか。心が折れそうになります。

でも、負けるわけにはいきませんよね。前進あるのみです。

2011/04/07

想い出の沿岸部の町々

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病室のベット上で耳を傾けていたラジオから・・・

「女川町役場が屋上まで浸水しております」

耳を疑いました。

女川には、30年ほど前に勤務の関係で住んでいたことがありました。確か役場は、海岸から約300~400mの距離ではありますが、海岸よりやや高く、庁舎も4階建だったように思います。

その4階建ての建物が津波に飲み込まれてしまった?

中心街は、海の中にあるということなのか?

どう考えても、想像がつきませんでした。

昔世話になった方々は、ご無事だろうか?

女川は、初めて親元を離れて暮らした町。独身時代の最後を暮らした町。沢山の新しい友人と出会った町。

2年連続参加したみなと祭りのこが(水産加工場で使う樽)漕ぎレース。湾上中央から上がる打ち上げ花火、海面に半円を描く水中スターマイン

他にも想い出がいっぱいです。

女川だけではなく、岩手から福島に至る沿岸の想い出の町々。

女川勤務時代に社内旅行で訪れた、大船渡、釜石、宮古。

中学生の頃に叔父家族に交じって訪れた、気仙沼、唐桑。

結婚して間もなく訪れた、気仙沼大島。

幼い頃に母と潮干狩りを楽しんだ東名海岸(現東松島市)。

やはり幼い頃に家族で海水浴を楽しんだ深沼海岸(仙台市若林区)。

小学生の頃、父と釣りを楽しんだ閖上(名取市)、岩沼の貞山掘、鳥の海(亘理町)等々。

学生時代に泊りがけで友人を訪ねた相馬市。

家内の母の実家であるいわき市小名浜。

機会があったら、また訪れてみたいと思いながら、実現できないでいた場所の数々。

地元の方々にとっては、気の遠くなるような復興への道程かもしれません。いや、ライフライン等の復旧すらままならないで苦労しておられる所もある現在。しかし、いつの日かあの美味しい魚をまた食べられる日が、美しい海岸線を眺めることができる日が、港に威勢のいい浜の男、浜の女の声が響く日が一日でも早くやってくるよう願ってやみません。

しかし、昨年2月に書いた記事「漁村の夜明け」。まさか1年後にこんなことになるなんて。

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[PENTAX SFX/SIGMA Af ZOOM 75-200mm F3.8/PROVIA 100]

2011/04/06

障害者のための災害支援活動

昨日、今日と、朝はまた真冬に逆戻りしたような冷え込み。特に昨日は、氷点下6.3まで下がった観測地点もあったようです。ただ、日中は、両日とも快晴。気温もぐんぐん上がり暖かでした。

そんな中、昨日は定期の通院、今日は別件の用事もあって、2日連続で東北労災病院へ行ってきました。

病院もまだ物資不足が続いているようです。毎月交換していた排尿の際に使うカテーテル、予備もあったので協力することに。ある製薬会社も工場が被害にあったとのことで、当面間に合う分のみの処方で、不足分は送付していただくことになりました。

ただ、中には、今それがないと困る、生死に直結する医療用品、薬等を必要としている方も多いかと思います。

このような状況下、特に障害がありながら避難所、自宅等で孤立してしまって、必要なものが入手できないでいる人はいないのだろうか?

私の主治医は、それを大変心配されていました。

メディアでは目立って取り上げられていないような気がしますが、そのような障害者のための災害支援活動に参加し、東奔西走している友人、先輩方がいます。

関連サイトをご紹介しますので、もしお知り合いやお近くに困っている方がいらっしゃれば、是非、参考になさってください。

ゆにふりみやぎ

有限会社 車座

JDF東日本(東北関東)大震災被災障害者総合支援本部

同上本部 みやぎ支援センター活動報告

*追伸・メモ

昨日今日と病院までの沿道にあるガソリンスタンドは、ほぼ開いていて、並ぶことなく給油できていたようです。いったいあの行列は何だったんだと、目を疑いたくなりました。

昨日、やはり支援活動に参加していた友人を(花見の名所榴ヶ岡公園向かいの)みやぎNPOプラザに訪ねた際、敷地にある桜のつぼみが大分ふくらんできていました。もう少しで開花ですね。

110406

2011/04/04

怒り

今朝は冷えた。一番低いところで-4℃。避難所生活をされる方が多い沿岸部でも氷点下だ。早く本格的に暖かくなってほしい。

そんな早朝、ラジオ「生島ヒロシのおはよう一直線」で、心も凍りつくような話題。生島さんが新手の詐欺や悪徳商法に対する注意を呼び掛けていた。

被災して金が無くなったと、現金を振り込ませようとするオレオレ詐欺。義援金を装った詐欺。家の修理等への高額請求等々。

こんな大変な状況まで利用しようとするなんて、なんて奴らだ!

不謹慎かもしれないが、自分や自分にとって大事な人が、濁流に飲み込まれ、もがき苦しむのを想像してみたらいい。

と言って聞く奴だったら、最初からそんなことしないか。

嗚呼、嘆かわしい。

甚大な津波被害にあった気仙沼で、信用金庫から4千万円が消えた事件はニュースになった。

しかし、大きくニュースにならない酷い話がたくさんあるようだ。

やはり津波被害が酷かった名取市閖上の知人は、水没を逃れた2階から現金や家財を持ち去られた。

別の知人の周辺では、コンビニのガラスが割られ商品が持ち去られたり、駐車場に止めてある車からガソリンが抜き取られたりしたという。

本当に情けない、悲しくなる話だ。

2011/04/03

不安

揺れが治まっても、まだ揺れているような錯覚を覚えた。3分近く揺れが続いたらしいが、それ以上に長く感じた。

病室ではご法度、そして、またこのような状況では繋がりにくいとは分かっているものの、直ぐに携帯を手にした。

だが、やはり既に「圏外」になって繋がらない。メールも送信不能。同室の方々も同じだ。

「(西隣に建つ8階建ての)管理棟からは、速やかに退避して下さい!」との館内放送が流れ、緊張が走る。

あの揺れから、宮城沖以上のパワーであった事は、容易に想像がつく。阪神大震災ニュース映像が頭を過る。建築物の崩壊。街を包む炎。

家族は何処にいたんだろう? よく買い物に出かけている時間だ。建物の崩壊、道路の陥没に巻き込まれていないか? 不安が大きくなる。

電源は非常用に切り替えたらしく、間もなく照明は点いた。しかし、一般電源のテレビは当然見られない。今、どのような状況に置かれているのか? 部屋の方の了解を得、携帯ラジオをイヤホンなしで流し、皆で耳を傾けた。

夜になって、一時携帯の圏外表示が消えた。そして、長男からみんな無事でいるとの短いメール。一安心。

「今どこにいるのか? 自宅? 避難所?」と返信。しかし、直にまた繋がらなくなった。

倒れた家財等で怪我はしていないか? 次の治療待ちで帰宅していた長男、寒さで体調は崩さないだろうか? 食べるものはあるのか? また不安で胸が苦しい。

その後、土・日の週末、週明け月曜日と、連絡がつかない不安な日々が続いた。大事の時、家族をも守ってやれない自分がとても情けなかった。

15日火曜日頃になると携帯が繋がりやすくなり、友人からも安否確認のメールが入るようになった。家内からも、自宅で頑張っているとのメール。

そして、その午後、家内、長男、長女が揃って来てくれた。皆の顔を見た途端、涙がこぼれそうになった。

スタンドが閉まっていてガソリンも灯油も買えない。食料は開いてる店を探し、長時間並んでその日の分を調達。

追い打ちをかけるように時々雪も降る冬に戻ったよう日が続いている。そんな寒さの中、長時間並ぶ家族の姿を思い浮かべると、胸が締め付けられるようだった。

翌日、16日水曜日、ライフライン(電気はその日復旧)も完全に復旧していない状況、若干の微熱も残り不安もあったが、土曜日退院の方向で家内に相談。病院も医療用品等の物資不足、被災地からの患者さん転送等で大変な状況のようだった。

19日土曜日の午後。このような状況で、家族のお荷物になってしまう・・・という不安。いつもとは違う、複雑な思いを胸に病院を後にしました。

2011/04/02

2011年3月11日 午後2時46分

最高39.7℃の熱が3日続く。9日水曜日の夜に抗生剤を変え、翌日には最高37℃後半まで漕ぎつけた。

その翌11日金曜日、午前中の回診。最初、尿路感染に効くはずの抗生剤が利かなかった事。変えた抗生剤でも期待した効き方ではない事。そこで他に原因は無いか、CTを撮ってみることになった。

検査室は外来の方が優先なので、点滴を受けながら呼び出しを待つ。

そして、午後2時46分。

ベッドの下から何者かに蹴り上げられたような強い衝撃。
一瞬、ベッドが弾んだかのように感じた。

一息置いて襲った南北方向の強い揺れ。
病室が歪んでいるかのように見えた。

左横にあった床頭台が、ガタガタと音を立て倒れかかってくる。
それを手で押さえながら、「止まれ、止まれ!」と、心で叫ぶ。

それを嘲笑うかのように、更に縦揺れを挟みながら揺れは一層強さを増す。

まるでオカルト映画のワンシーンように、天井の照明が照度の強弱を繰り返しながら消えた。

手で押さえていた床頭台は、キャスターにロックがかかっていたはずなのに、今度は反対側に離れていく。

また更に突き上げられる様な縦揺れ。そして横揺れも息を吹き返す。このまま永遠に揺れ続けるかのように。

「もしかしたら崩れるかもしれない? ・・・それより、家族が無事でいてくるように! ・・・とにかく早く止まってくれ!」
そう念ずるしかありませんでした。

2011/04/01

入院 そして地震

東日本大震災から丁度3週間。今日は、晴れて暖かく、まるで何事も無かったかのように穏やかな一日でした。

振り返れば3月6日の日曜日、39.7℃の急な発熱。入院を覚悟して東北労災病院救急外来に向かうが、その日は主治医も不在で、解熱剤で様子を見ることに。

翌日、熱は下がらず、あらためて泌尿器科を受診。尿路感染症とのことで、今回は素直に入院。

そして、入院3日目の9日水曜。点滴中、突然の突き上げるような縦揺れの後、激しい揺れ。

ベット柵にしがみつき、「ついに(来る来ると言われた)宮城沖地震か!」。

でも、かなり大きく感じはしたが、昭和63年に経験した宮城沖地震ほどではなかった。

同室の方と、「これが宮城沖だったらね・・・」と、顔を見合わせる。

翌日の河北新聞一面に、「宮城沖とは無関係。震源の場所は別」。

「出来るだけ軽く住んだら・・・」
そんな甘い期待は、残念ながら脆くも簡単に崩れ去った。

ただ、3面に「誘発されて起こる連動型の危険性は低減か」と。

「そうか、昨日の地震と(宮城沖が)一緒に起こればかなり大変なことになっていたんだな。まずは良かった、良かった!」

・・・と、不安をかき消すようにつぶやく。

しかし、それが甘い考えだったとは。その甘い考えが、まさか2日後に吹っ飛んでしまうとは、思いもよらなかった。

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